昭和歌謡シアター『終着駅』〜天地みどり performing 柴田あゆみ〜
この作品の中で、『天地みどり』という人物はかなり色の濃い存在になっています。
お店のアイドルではあるものの、山根啓子という実力的にも人格的にも一枚上手の人物がいるため、どうしてもマスコットにとどまりがちな存在。
しまいにはソロでやっていけなくなり、不本意なコンビを組まされた挙げ句、啓子の下に届いた合格通知を破いてなかったことにしてしまう、過去編のみどり。
なお、後半からはみどり自身はオーディションに落ちてしまったというおまけがついています。
現代編では医師と結婚し、何不自由ない暮らしをしている一方で、啓子の夢をつぶしてしまったことを悔やみ、彼女へ謝罪に訪れる姿が描かれています。
ショーパブ『終着駅』の人々はそれぞれが夢を追いかけているわけですが、夢と自分自身に挫折する姿が直接描かれているのはみどりだけです。
話の一大転換点だけに、この人物の存在は重要であるわけです。
山根啓子という人物は、みんなから愛され、頼りにされ、大事にされる存在ではありますが、基本的に人格的な書き込みは薄めにされています。
主人公には欠けがないことが要求されるため、必然的にこういう傾向に陥りやすいのですが、今回に限っては敢えてそういう風にしたとも言えるでしょう。
そのアンチテーゼとしての、抜けだらけのみどり。
歌手としても、人としてもどこか完成しきれなかった存在。
それ故に惹き付けるものがあるのが、みどりという役柄であるかと思います。
最後のダンスシーンに参加する時は「自分自身のことを考えたい」というおよそ彼女らしくないヌルい理由を持ち出すのですが。
ハッキリ書くとすれば、何かやはり感じ直したい物があったのでしょう。
もっともその辺りは、ハッキリ言わない方が良いとは思います。見ている側が、そういう人らしい一面を見て安心できるというぐらいで丁度良いのではないでしょうか。
柴田に言わせても地ではない役がやって来たわけですが、こういういわゆる「ターン」−本来のイメージと真逆のイメージを敢えて背負い込むのには、様々な作用があります。
慣れ親しんだイメージからの脱却。
あるいは、元々持っていたイメージへの回帰という側面が生まれる場合もあります。
柴田の場合、敢えて真逆のイメージを当てることで、より役柄に深みを与え、また見る物に共感を与える作用を要求されたのだと思います。
それはただ暗いイメージだけでは描くことが出来ず、また明るいイメージだけでも描けない、難しいタスクです。
努力の大切さと、才能の有無という厳然たる事実。成功の輝きと、精神の輝きが常に一致するとは限らないという真実。
そういう人間の持つ+と−の部分を、一人の人間で描くことを要求されたみどりという役柄。
それをしっかりと内包できるのが、柴田あゆみの魅力故に、こういう濃い目の役が振られてきたのだと僕は思います。
この役柄を演じきった事で、柴田には自分という存在の確かな力を感じて貰えたのではないか、と思います。
それを今後に生かしていって貰えたら、と思う次第です。